“Education”
”いつかのメンタリティ”
まさにこれを書いていることもそうなのですが、留学を始めた時に英語を使うようになった時もそう。
学校で教わることは全て、”いつか使うため”ではないでしょうか。
例えば、数学・国語・理科・社会などクイズ番組で知識を競い合ったりする以外に究極のところ求められることはない。
もちろん必要最低限の教養としての読み書きや計算は必要ですし、子供の興味を持たせるために様々な分野を提供することは大事です。
しかし、これらの本当に意味するところは”考え方”を学ぶということだと思うんです。
本来は、決してテストの為の暗記などのその場しのぎではなく、各分野の特徴的な思考力を学ぶことに意味があるのではないのでしょうか。
そう気付いたのも大学生のある時。
きっかけは思い出せませんが、気付いた時に、はっとさせられた感覚は今でも覚えています。
もしかしたら他には早い段階から理解していた人もいるかもしれませんが、少なくとも今までの人生では直接的に「こういう理由でもあるんだよ」と言ってもらったことはありませんでした。
”後から気付く教育”
前述したように英語もそうです。
日常会話に困らないほどの文法は中学校の間に勉強するから、海外に出ても本来なら困らないはずなのに喋れない。
無論、”喋る”練習をしてないのはそうなんですが、喋るようになって、あ!!と学んだことを思い出す。
そう、つまり二度手間なんです。
勿体無いような気がするんです。時間が。
そりゃ必要ないならそこまでですが、喋れるに越したことはないと思うんです。
よく、
大人になってから気付いた!
とか聞きますが、大人にならないとダメなのでしょうか?
経験しないとわからないとはいえ、理解させる方法はたくさんあるのではないでしょうか。
”「今」に向き合う”
何もイタリアに来たからという訳ではありません。そして日本にいないという訳でもない。
ただ、とりわけ今まで行った/出会った国の人たちは現状に向き合う力が半端なく強かった。
トレーニング。試合。試験。課題。レストラン。祝日。ストライキ。プロテスト。1日を生きる。
逆風も追い風もじっと耐えることなく利用していく、その使い方にユーモアやアドリブなどの臨機応変な対応で、粋な計らいを魅せられるのが外国人と日本人の唯一違うと言える部分なのかなとつくづく思います。
そしてそんな魅力が1番人間的でコーチに欠かせないと思うようになりました。
“いつか”、ということを念頭に置きつつも、1日1日をしっかりと噛み締めていくことで、着実に成長していく。わかりませんが、そんな気がしています。