Through Football

世界の"フットボール"を通してJAPANESE STANDARDを考えていきます。

“First Time Ever and”

 

“On the Way” - Through Football

以前は大学を少し紹介しました。

 

勉強すること以上に理解したことを伝える能力が重要であること、そして周りとの付き合いが結果的に助けてくれることを身を持って体験できた大学生活でした。

 

少ない場数。

 

片や指導者としての経験値でいうと、多くはなかったです。

 

どうしても、最優先は大学の課題で良い点数を取ること。

その為に慣れない文献を読んだり、参考書の内容をまとめたりなどで当時の僕はいっぱいいっぱいでした。

 

初めて手伝ったチームは、大学1年目が終わって夏休みに帰国した際に、3ヶ月間お世話になった“FCしらゆりシーガルス”という神奈川県伊勢原市に拠点を置くクラブ。

伊勢原 サッカー | 伊勢原市 サッカー・スイミングクラブ

 

オーストラリアの時に出会った日本人がそこでコーチをしていたこともあり、通わせてもらいました。

 

あとは、FA Level 1という指導者資格を取得とFA Youth Award Module 1という育成年代に特化した指導に関する講習会に参加するなどして学習しました。

 

あとは撮影係として。

 

同じ大学の院生として在籍していた日本人の方がTranmere Rovers(当時3部)の下部組織のコーチをされていました。その関係でほんの少しの間でしたが、週末の試合撮影を手伝っていました。

 

以上。2年間の在籍で出来たのはこれだけでした。

 

とりあえず。

 

3年目にはクラブチームでの研修が必須になります。

学年の始まりに各自が希望するポジションを申請し、教授の判断で各チームに配属されるという形でした。

 

候補としてあるのは3部や4部、もしくは女子クラブチームの下部組織のトレーナーやアナリストなど。

 

その中で特別枠となっているのがEverton FC

 

唯一のプレミアリーグクラブでのインターンであり、下部組織のスポーツ科学もしくはトップチームの試合分析官の2種類があります。

 

7月から翌年6月までの1年契約ということで、2年生の終わり頃に次シーズンを見据えてスポーツ科学科の生徒全員に募集のメールが一気に送られました。

 

最初受ける気は全くありませんでした。

 

今となっては何故無かったのかわかりません。

 

きっと、1学年上の日本人の先輩が面接まで行けたのに最終的には破綻になったことや受かっても夏の帰国が短くなるなど、どーでもいいことを気にしていたんだと思います。

 

兎にも角にもやってみないとわからない!ということで、今までのごく僅かな経験をCV(経歴書)に書き記し、応募しました。

 

初めてにして最高。

 

ー面接に行けるだけでも。

 

そんなことを思っていたら、1次審査は通ったというまさかの連絡が。

 

それから3週間。

 

5月初旬で気温も高くなってきた中、急いで送ってもらったスーツを着ては汗だくだくの状態で、Finch Farm内2階にある食堂横のソファーに座っていました。

 

何を聞かれるのか何を話せばいいのか全く検討がつかなかったので、とにかく呼ばれるまでは待つしかありませんでした。

 

そして名前を言われて、教授についていった先は下部組織のスポーツ科学を担当してるボスのオフィス。

 

「それじゃあ、自分を売り込んでみてください。」

 

これが最初の質問でした。

 

この時初めて僕が一次審査の書類で何を見られたのか。何でこの場に呼ばれたのかがわかりました。

 

今までの留学経験、そしてその中で身に付けたこと。それを話しました。

 

「世界中を見て回ってるんだな!?」

 

そんな一言の後は、まず研修のポジションが2つあること(この時初めて知りました)、採用するとしたらクラブには珍しいアジア人であること、その話を聞いた上でやれる覚悟は出来ているかを確認され、面接は終わりました。

 

それまで受けたことのある面接はバイトだけだったので、手応えも何もよくわからないまま施設を後にしました。

 

 


ー1週間後。

 

 


生憎にもリバプールFCショップの試着室にいたところ、電話がかかってきました。

 



ーなんと合格。

 



まさかまさかの展開についていくしかなかったです。

 

続く。

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